農★blog - 2009/02のエントリ
1週間ほど前だったでしょうか。あるJAさんに向けて車を走らせていると、カーラジオからちょっとした話題が流れてきました。「NHKは、放映中の『きょうの料理』の『目安となる材料の量』を、2009年3月30日放送分から、現在の『4人分』ではなく『2人分』に変更する…」。その理由は2つ。一つは1世帯の平均人数が2005年国勢調査で約2.6人まで減少したこと、もう一つは、視聴者アンケートで要望が強かったこと、だといいます。さらに、食料の廃棄処分が増えている現状を踏まえて、「食べ物を大切にする姿勢も示していきたい」という立場からの見直し、とも伝えられていました。
「きょうの料理」の放送が始まったのは1957年11月4日。もう半世紀以上も続いていて、2006年10月からは「現行のテレビ番組では、最も長寿の番組の一つ」になっているそうです。番組中の料理で使用する食材は「全国どこでも簡単に手に入るものを用いる」という基準を設け、身近に手に入れられる食材にこだわり続けてきたといいます。そのことが、長い間親しまれてきた理由なのかも知れません。また、冨田勲さん作曲のテーマ音楽「♪トントコ トコトコトコ トントントーン …」が、お料理の楽しさを感じさせる名曲としておなじみになったのも、50年以上もの歳月の重さを物語っています。
ニュースなどで日本の人口問題、少子化問題が報じられても、なかなか実感として受け止められないところもあったのですが、こういう身近な変化に出会うと、「そうだよなぁ。少しは考えなくちゃ…」という思いが出てきたりします。
ただ、人口の問題で言えば疑問な点もあるのです。日本の人口は2005年に初の自然減となり、これから急速に減少に向かうと推測されています。1920年の第1回国勢調査以後、太平洋戦争による一時期を除くと、ほぼ右肩上がりで増え続けてきた流れからすると、政府機関や一部マスコミなどが「人口減によって経済が縮小し、国の活力も落ちていく」と深刻になるのも仕方ないことかとも思えます。
その一方で、技術の進歩や労働生産性向上、高齢者の雇用拡大などを通して「成熟社会」を実現していけば、人口減少で生じるさまざまな問題はクリアできる、とする主張もあります。どちらが正しいのか、その判断は難しそうです。
図表:日本の人口推移と将来推計人口
(内閣府:平成19年度年次経済財政報告 平成19年8月より)
さらにもう一つ。確かに日本は人口減少に向かっていますが、世界レベルではむしろ人口は急増しています。1分に140人、1日で20万人、1年で8,000万〜9,000万人増えている、という推計もあるほどです。こうした動きと切り離して、自国の人口減だけを取り立てて騒ぐのはどうなのか、というところも気がかりなのですが…。
どちらにしても、人口問題が日本の産業にとって、難しい問題であることは間違いなさそうです。JAさんを回る中でも「今までと同じ生産性、同じ付加価値のものを作っていくだけでは、やっていけなくなる」というお話も受けたりします。日本の人口減と、世界の人口増、そのどちらに目を向けていくのか。あるいはどちらにも目を向けた対応をどう進めていくのか。農業に携わる人たちは、そうした難しい選択を迫られているのでしょう。
素人考えでは、日本だけの範囲よりも、アジア、世界という広いエリアで工夫していく方が、何か新しいものが動き出すような気もしますし、日本の食料基地と言われる北海道が世界の食料基地を目指す、というのも面白そう…。運転しながらそんなふうに考えているうちに、目指すJAさんに到着しました。さてさて、「なんだか仕事の能力が、1人分から0.5人分に減ったんじゃないの?」とJAさんから言われないように、気を引き締めて行かなくては。
TVをBGMがわりにしながらパソコンで作業をしていると、妙な言葉が耳に飛び込んできました。「……そこで重要になってくるのが、とりあえず、です……」。一瞬、「とりあえずCMへ」の言い間違いかとも思ったのですが、ナレーションはどんどん続いていきます。目を画面に向けると、映っているのは災害現場で救急医療にあたる医師たちの姿。それで謎が解けました。「とりあえず」ではなく「トリアージ」、つまり、「大規模な災害で多数の傷病者が同時に発生したときに、救命の可能性の高さを基準に治療優先順位を決定する」というテーマのニュースだったわけです。
年齢のせいか、そうした聞き間違いがこのごろけっこうあります。例えば、「月光仮面は縮みだぁっ!」「次は、天気野放図」「うるせー美術館は鉄道の駅を改造してつくられた建物です」……。時空の「縮み」はアインシュタインの理論ですが、さすがにTVヒーローは縮んだりしないでしょう。「縮み」は「不死身」の間違い。また、いくら地球温暖化が深刻でも「野放図に天気が変わる」わけもなく、「次は、天気予報です」が正解。最後の例では、街中の駅だった場所なら騒音でうるさそうな気もしてきますが、実際は「オルセー美術館」、という具合です。
音と画面が一緒にある、話しの流れが分かっている、など、いくつかの情報を総合して受け止めていける場合はそうした聞き間違いも防げるのですが、切り離された情報だけが部分的に「ポツン」と伝わってくるケースでは、間違いが増えてしまいます。
先日、自宅近くの大手スーパーで買い物をしていて、ある情報掲示に目がとまりました。それがこちら。
「不足しがちな野菜・果物をもっと食べましょう」というメッセージと産地、値段が表示されています。でも、せっかく「もっと野菜を」とアピールするなら、この白菜、この長ネギを食べると、「不足しがちな」どんな栄養素が補われるのか、そこまでの情報も加えてくれると消費者にとってはありがたいのになあ、という感じを受けました。
別なコーナーに行くとこんなのが…。
「炒め物にどうぞ」という調理方法の情報が追加されています。ただ、なんだか単発な情報のような感じを受けます。より率直に言えば、お豆腐売り場の「寒い冬、湯豆腐にどうぞ」、果物コーナーでの「デザートに」などと一緒で、いわば「あいさつ言葉」「決まり文句」のような印象が伝わってきます。その程度では、消費者が必要としている「情報」にはならないのでは…?
せっかくなら、もう一歩踏み込んでほしいな〜。例えば写真のキャベツだったら、炒めた場合、生で刻んだ場合、茹でた場合、それぞれで「栄養素がこんなふうに変わってきます」とか、「○○産は、他の調理方法より炒めるのがおいしさを際立たせるコツです」とか、「△△と一緒だと味わいが増します」とか。
そういうふうに情報の総合力を高めていくことで、消費者にとっては「他にはない情報が得られて良かった」という満足感がそこに生まれてくるような気がするのです。実際に、珍しい野菜などにはその調理方法を細かく提案して販売しているスーパーや、「食べ頃にはまだ早いので○○日ぐらい寝かせてからどうぞ」などのように、販売側にとってはマイナスに思えるような情報までも丁寧に伝えようとしているスーパー、そうした取り組みを進めているお店もあるのですから。
トリアージの語源はフランス語の「triage(選別)」だそうです。「食の安全・安心」が大きな関心事になっている今の時代、食の分野においても「消費者にとって必要な情報は何か」についての「選別」や「優先順位の決定」が、「とりあえず」重要なテーマになってきているように思うのですが…。
深刻な経済危機の対応策として「政府紙幣の発行も」、との報道がありました。通常は、日本銀行が紙幣を、政府が貨幣を発行していますが、仕組みとしては政府も紙幣を発行できるのだそうです。ただ、効果も想定される半面、リスクも大きいらしく、実現するかどうかは流動的なようです。別に紙幣じゃなくても、政府の発行している500円というのは、世界でもかなりの高額貨幣なので、それを有効に活用できないのだろうか、などと素人は考えてしまいます。
その500円、額面としては高額であっても、使う人によってその重さや価値はいろいろでしょう。愛煙家だったら「500円じゃ2箱も買えない」と軽く感じるでしょうし、家計をあずかる立場なら「1日の食費をなんとか500円でも浮かせたい」と重く受け止めるかも知れません。私自身も「500円の重さ」を考えさせられる、いくつかの出来事に出会いました。
その1:
仕事の調べもので、小さなマチの「郷土資料館」を訪れたときのこと。お昼も近いためか周りには誰もいません。「邪魔もなく、ゆっくり資料を探せそうだ」と入ろうとすると、ドアに鍵…。管理事務所で聞くと、「まあ、開館日だけどぉ…」「ふだんは客が来なくて、開けてないんだわ…」「見たいのなら開けるけど、ホントに見るのかい?」と、困り顔での対応です。とにかく開けてもらおうとすると、二の矢が飛んできました。この資料館、マチの野外レジャースペースの敷地内にあるため、「入館料は無料。しかし、エリアへの立ち入り料金が500円かかる」。用事は資料館だけであっても、です。仕方ありません。昼食のおにぎり代にと予定していたワンコインを支払って入館しました。
館内はいたって「普通」、珍しい展示品はなく、使えそうな資料も見当たりません。それで最後にトイレを借りて帰ろうとドアを開けたのですが、ん? 何だか、床一面がざわざわしているような違和感…。電気をつけると、出迎えてくれたのは、数えるのも面倒なぐらいひしめきあったカメムシさんでした。これでは足を踏み入れられません。「いや〜、これが自慢の展示品ですか?」と面白くもないツッコミを入れながら、その施設を後にしました。
ドアの鍵、料金の設定、管理人さんの対応、カメムシのお出迎え。これで500円…。私にとってそれらは、マチの「生の姿」を教えてくれるまたとない「資料」になりましたから、その授業料としてなら高くはなかったのですが。
その2:
札幌の人口は約190万人。豪雪地帯にあってこれほど人口の多い都市は世界でも珍しいと言われています。そんな環境なので、自宅から車で5分ほどのところにスキー場があります。しかも住所は札幌市中央区…。もちろん、雪まつりの開かれる大通のような、街の真ん中ではありませんけれど。
この10年ぐらい、スキー・スノーボード人口は大きく減少し、「リフト30〜40分待ち」などの頃が懐かしくなるほど、今ではどこのスキー場もやけに広々と感じます。そんな中で、自宅近くのそのスキー場は、小・中学生を対象に「放課後の時間の500円レッスンコース」を設けました。通常の10分の1ぐらいの料金なのに、指導者がついてレッスンを受けられるとあって、けっこうな生徒さんが利用し、夕方のゲレンデに少し活気が戻りつつあるといいます。
スキー場としては、短期的な効果だけではなく、将来のスキー人口増に向けて今から若年層に働きかけていく、というところに本来の狙いを置いているようです。そうした将来への投資として、また、「遊休時間」の活用方法の一つとして、この500円はどのような効果をもたらしていくのでしょうか。
その3:
昨年の秋、ある農村の産地直売所に出かけました。自慢の農産物があれこれと並び、多くの人が地元産の米、野菜などを買い求めていました。直売所の隣には、地元産以外の食品を並べた販売コーナーがあり、お客さんは自然にそちらにも流れていきます。
一人の女性客が、500円という値札のついたある食品に手を伸ばしました。手にしていたのは、にんにくを袋詰めにしたもの。表から裏までをじっくりと眺め、突然、仲間の一人に向かって声をかけます。「こりゃあかんで。いまどき中国産なんかを並べているようじゃ、直売の野菜も信用でけへんのとちゃう?」。中国産の輸入食品がいろいろと話題になっていた時期で、大きな声が周りにも届いたせいか、販売コーナーや直売所から人並みがスーっと消えていきました。
運営側としては、安全を確認して販売していたとは思います。でもそうした情報提供が充分ではなかったためか、わずか500円で、それもその直売所の主力ではない商品のために、直売所やそこの農産物全体のイメージが、マイナスの方向で受け止められてしまう…。そうした怖さを、この関西からのお客さんが教えてくれたのです。
東京には空がない…。そんなふうに嘆いたのは、高名な詩人の奥さんだったでしょうか。それにちなんで言うと、今年の冬、「北海道には雪がない」。
日本気象協会北海道支社によると、北海道内の1月の平均気温は氷点下2.1度。記録的暖冬だった1991年に次ぐ暖かさだったそうです。暖かいだけではなく積雪も少なく、豪雪地帯として知られる空知地方などでは例年の約4分の1ほど、札幌や旭川でも半分以下だと報じられています。下の写真は、今朝撮った札幌市内の道路の様子です。
こういう暖冬少雪に対して、「やっぱり地球温暖化のせい?」と心配される方、「春がすぐそこまで近づいているみたいで、心が和む」という方、いろいろおられることでしょう。確かに、仕事で道内各地に出かける私たちにとっても、車を走らせやすいのは大助かりだし、灯油代を少しでも節約できるのもありがたい。しかし、です。冬につきものの雪や寒さがなくては困る、そういう人たちも少なからずいるようです。
例えば、スキー場。雪不足でスキー客が伸びず、地域経済にも影響を及ぼしているとの報道がありました。また、冬の北海道観光を彩る各地のイベントでも、氷像や雪像の形が崩れる、雪の大型滑り台が中止になる、しばれ体験用のかまくらが雨で崩れる、などなど、かなりの打撃を受けていると伝えられています。
心配なのは冬の観光にとどまりません。いくつかのJAさんを訪問する中で、「冬の間にどれぐらい雪が降るか、積もるのか、それは春以降の農業用水と深く結びついている」ということを教えられました。つまり、暖冬で雪が降らないと融雪水も少なくなり、水田の代かき、田植えなどの需要期に農業用水が不足してしまうのだそうです。写真は、1月末、空知地方の稲作地帯を通ったときのもの。冬真っ盛りの時期なのに、秋の刈り取り跡がまだ見えるほどで、門外漢の私にも積雪の少なさが実感できました。
雪国・北海道ではこれまで、たくさんの雪のもたらす困難からいかにして生活を守るか、という「克雪」をキーワードとしていました。それに対してここ十年ぐらい、「雪は、太陽熱、風力につぐ第三の自然エネルギーである」との立場から、利用方法についての研究が進められ、具体的な取り組みも広がっています。そうした考え方を「利雪」と呼ぶそうです。
雪の持つエネルギーはけっこう大きなものらしく、そこに着目して、北海道の各地でさまざまな「利雪農業」の試みも進められていると聞きます。そうした取り組みが根付いていく中で、「雪国・北海道だからこそできる農業」という可能性も高まっていくのかも知れません。「ウチの地方には雪がない…」、そんなふうに北海道がうらやましがられるようになる日も遠くないはずです。
「雪は厄介なもの」「膨大な除雪費と手間をかけて捨てるもの」ではなく、「天の恵んでくれた新しいエネルギー」、そういう捉え方で雪と付き合っていくことが求められる時代なのでしょう。そうであるなら、やはり冬には冬らしい積雪があってほしいもの。どんなに雪が深くても必ず春は来るのですから…。